でっきぶらし(News Paper)

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72号(1989年11月)15ページ

マサイキリン 富士雄の死に思う

 今から二十年前、十頭のマサイキリンがアフリカより船で渡ってきました。その中の一頭が富士雄で、数年前に事故で死亡した高子もその中の一頭でした。
 他の八頭は、十年前後で全部死んでしまったそうです。とすれば、推定でながら二十二年生きた富士雄は、ずいぶん長生きしたことになります。頑張って、他のキリンの分まで生きようとしたのかもしれません。
 来園当初、開園までまだ少し間のある六月下旬、体高はまだ2.8mぐらい、年令も推定ながら二才ぐらいで、まだまだ子供でした。
 そんな風でしたから、部屋も放飼場もうんと広く感じられました。がらーんとして寂しく思うことさえあったぐらいです。
 しかし、まだ環境に馴れていない為に暴走、ゾウ舎側の柵に激突して倒れたことがありましたる。あまりの衝撃に死んでしまったと思ったぐらいです。
 四才ぐらいになってようやく発情が見られるようになりました。富士雄は高子に猛烈に求愛、交尾しようと盛んに試みますが、その度に失敗、初めてでは無理もありません。
 それでも、それでも、発情がくる度に試みました。その内にペニスから出血する有様でしたが、もう必至おかまいなしでした。
 こんな調子ではとても妊娠させられないだろうと私も周囲の者も半ば諦めていました。ところが、どっこいちゃんと妊娠させていたのです。
 しかし、予想外!?の出来事に準備が整わないまま出産。結果、初めての子「富士子」はひざを痛めて短命に終わってしまいました。
 この後は、交尾下手はなくなり、雌に発情がくると一日中追い回し、次の日には交尾してしっかり妊娠させていました。
 発情のピークは雄々しく猛々しく、いつもは私達が放飼場に入ると逃げるのですが、逆に立ち向かってきます。これは本当に恐ろしくすぐ様私達が逃げました。
 それからしばらく、全盛期といえる状態が続きました。毛並みもよく黒光りして健康状態も良好、壮年期のキリンの貫禄は充分でした。
 ある日、雌の徳子をしつこく追い回し過ぎて足を痛めさせてしまったので、雌を分けて室内に入れて安静にしたことがありました。
 富士雄は怒り私をマーク、鼻を「フン」とならしじわじわと横歩きで寄ってきます。いつでも首を振れるよう、距離を計り、タイミングを見図らっているのです。
 何も知らず私のそばへ寄ってきた人工哺育しているキリンの子、私が逃げたのがまずく、長い首のキックをまともに受けて、一瞬宙に舞い、そのまま地面にドタン。
 「ああ、死んでしまった」とどきり。しかし、少しずつ動き出し数分後になんとか起立できるようになりました。体がやわらかかったので助かったのでしょう。
 その後は、雌に発情がくる度に私をマーク。私の後をついて回り、隙があればキリン舎の柱をも折ってしまう“首キック”を見舞う構えです。
 そんな富士雄が、昨年十二月三日より尿をしなくなりました。加えて餌も食べなくなりました。
 足を広げ腰をかがめて力むのですが、尿はでません。表情を見つめていて、人なら転げ回るぐらい苦しい状態では、と思えました。
 餌も食べず、尿も出ず…。消炎剤を吹き矢で打ち続けるも、効果はありません。
いよいよ麻酔をかけて治療することになりました。が、頼りは外国の文献だけです。 日本ではほとんど例がないのです。(注 外国で使っている薬は、現在日本で入手できないのです。)
 これ以上打ったら倒れて死亡してしまうところまで何本も打ったのですが、富士雄はまどろむ気配さえ見せませんでした。結局、失敗。
 十二月八日、二十二時、疲れて座ろうとするも、体が弱っている為に後肢が広がってしまい起立することもできません。それでも足を動かすので急いで滑り止めに丸太を入れたりしている内、とうとう首が倒れました。
 声をかけると少し動きますが、どうも血が頭にどっといったようで意識はもうろうとしている状態でした。
 数分後に呼吸停止。最後はもっと苦しむのではと思っていましたが、静かに息を引き取ったのはせめてもの救いでした。合掌。
(佐野一成)

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