でっきぶらし(News Paper)

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119号(1997年09月)4ページ

野生への憧憬

 昔よく使われていて、現在では時代等にそぐわないために使われなくなった言葉・・・いわゆる“死語”というものがあります。その中でも、私たちのような仕事をしている人間にとって特別な意味を持つ“死語”があります。今でも年配の方がよく使う言葉は<万物の霊長>といいます。
 この“死語”は、“死語”であるがゆえに10代や20代前半の方々はすでに知らないか、知っていてもその意味がわからないことが多いのですが、辞書にはまだちゃんとのっています。簡単に言えば、これは人間を指す言葉で、更につっこんで言えば、人間は万物(すべて)の中で一番の霊長(偉い)なんだよ、といばっている言葉です。まあ、人間が人間自身を全生物界の頂点に立つ偉い偉い生物なんだよ、と表現しているとんでもなくおこがましい言葉で、これの短縮バージョンを<人間様>といいます。若い方々には信じられないかもしれませんが、ほんの15年から10年前まで、テレビのコマーシャルにさえ使われていました。もちろん、人間の多くは自分たちをこの地球の支配者であると考えている(つまり、人間もやはり自然界の一部であるという、生物としての現実を理解していない)ので、この言葉が“死語”になっていたところで、な〜んにも変わってはいないのですが、それはそれ、日常会話の中でこんなたわけた、一種の差別用語がほぼ滅びかけているだけ、まだマシです。
 と言っても、今さら人間はそんなに偉くないだの、自然に還ろうだの言う気は全然ありません。
 実は、そんなことが問題にならない想いを、私は時々抱えているからです。これは、あくまでも私個人の意見であり、ま、そうじゃないかな?程度の、もの凄く無責任な発想なのですが・・・。もしかしたら、もしかしたら・・・人間はとんでもない憧れと、愛憎がごっちゃになった優越感と劣等感を動物たちに・・・野生動物に対して持っているのではないのか・・・そんな気がして仕方がないのです。
 その良い例が、人間の文明的進歩の原点です。人間は・・・人類は、様々な道具やテクノロジーを発達させてきましたが、その原動力となった<想い>の多くは明らかに、動物たちの<姿>に向けられていました。その<想い>とは、例えば鳥のように飛びたいとか、四足獣のように速く移動したいとか、水棲獣や魚類のように水中に長く留まっていたいとか、その動機には自分たち人間という種には不可能な他の生物の能力に対しての憧れがあったように思えてなりません。考えれば、それは当然のことだったでしょう。身近に自分たちの身体能力では絶対に無理な活動を営んでいる存在がうじゃうじゃいて、特にその中の鳥類に関していえば、日々その飛翔を目のあたりにしている間に人間の精神の中に表面的にも潜在的にも「くっそぉぉぉ、飛びてbネあ!」と歯ぎしりしたくなる感覚は自然に生まれてくるでしょうし、その「くそぉぉ!」と思うのが人間の人間たる証しなのですから、そのハラワタが煮えくり返るような憧れ?が鳥類の翼の代わりにでっかい脳みそを持っている人間の、飛ぶことに対する執着となり、永い永い試行錯誤の末、今日のような各種飛行機械が生み出された、と考えても差し支えない気がします。これは、転じて考えれば、人間の進歩のお手本が動物たちであった、と考えてもいいはずで、そうした身近なお手本がなければ人間のこうした進歩はなかった訳で、ちょっと乱暴に言ってしまえばその進歩のための精神的原動力やインスピレーションを与えてくれたのが動物たちだった、と考えることもできるはずです。
 この点だけ想ってみても、現在人間が様々なハイテクの上でふんぞり返っていられるのは、その発展の何割かの分野の中で人間にたくさんのインパクトを与え続けてきた動物たちのおかげだと私は思います。
 もしかしたら、そうして始まった進歩は、とても大事な部分で歪んでしまっているかもしれませんが、それでも、人類が動物たちを見つめ続け、その<姿>に近づこうとした結果がこの世界であると私は思っています。
 人類はこれから先、より動物たちの<姿>を追い続けていくのでしょうか?それとも今以上に動物たちから離れて行くのでしょうか?
 21世紀まで・・・あと2年と少しです。
(長谷川裕)

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