でっきぶらし(News Paper)

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オランウータン ベリーのSOS

                                           (松下 憲行)
 早いものだ、ベリーが来園して、もう六ヶ月以上も経つ、担当し始めた時から、この一年は大変な一年になるであろうと多少の覚悟はできていたが、いや振り回された、想像以上の大変さであった。
 体温から何が見える(?X)からは、オスのジュンと同居に至る過程を述べ、ベリーの嘆きからは、人工哺育の持つ問題点を述べた。しかし、それにまつわった苦労は、第一章から第二章にしか過ぎなかった。もっとも、私以上にベリーのほうが、はるかに苦しんだと思うが…。
 来園当初、同居作業に苦労しながらも、体重のほうは何とか増えていた。九月の半ばまでの二ヶ月半は、順調にほぼ100g平均で増え13.55kgにまで達した。しかしながらよかったのはそこまで。それまでにもムラのあった食欲が、よりいっそうのムラがでるようになり、体重の増加は停滞し始めた。
 時々おそう下痢が更に拍車をかけ、増減の振幅を激しくした。動きも次第に精彩がなくなり、薄くなった体毛がなお惨めさを誘った。
 そんなことが続いたある朝、いつものように体をふいてやろうとすると、妙に手をかばい痛がるのだ。おかしいと思っている内に右手をぶらぶらさせ、自らの体重をかけるだけの力を失ってしまった。下痢や行動の鈍化等で苦しんでいた最中での出来事。苦労の第三章というより第四章か始まった。
 じん帯を痛めたのではないかと心配したが、関節のところを触っても別に痛がる様子はない。だが、その下の筋肉の部分を触ると相当に痛がり、悲鳴をあげて逃げていこうとさえした。
 恐らく、動きが鈍くなっているのにも拘らず、ジュンに無頓着な遊びを仕掛けられ、どんとのしかかられるかして、腕の筋を痛めたのであろう。この推理には、獣医サイドの反論もなかった。あろう筈もない。誰が見てもそれしか考えられなかった。
 ジュンとは、当然別居。そして、朝に昼に夕に消炎スプレーをかけゼリー状の軟こうをせっせとぬった。その度に痛がるのをなだめすかし、時には叱りもして…。時々、ジュンが寂しがって泣く声がしたが、無視するしかなかった。
 今から思えば、この段階でもう少し突っ込んで考えるべきだった。腕を痛めつけられる程動きが鈍くなっていたのだし、それすらもはっきり進行してから気がつく有様だったのだから…。
 室内において比較的おとなしく静かにしていたのを、右腕が思うように使えないせいと思ってしまったのも、ひとつの落とし穴、次第に上がらなくなった体温、37度台が当たり前なのに、36度台の上をしばらく示すようになっても、運動不足だけを考えてしまった。
 確かに腕が良くなって、再びジュンと同居させると、体温は37度台をしめすようになり始めた。だが、すっきりしない動きは相も変わらずで、ジュンのしつっこい追い回しに隅っこで小さくなっていた。しかも、お腹の張り具合が妙に気になった。
 停滞する食欲の原因は、そこにあるのではないかと考えている内、体重は現状維持どころか大きく減少に傾いた。遂には13kg台をも割り、来園時とほぼ変わらない体重にまで減ってしまったのだ。それだけではない。いくら寒空とはいえ、たった一時間ぐらい放飼場に出しただけで、体温がすうっと簡単に一度も下がってしまうこともあった。
 落ち着くものではなく、悶々とする日々が続いた。もう私の手には負えないし、私ひとりが勝手に悩み苦しんでもどうしようもないことだ。獣医の立場からすればガミガミ強い口調で迫ってきたのだから、さぞや嫌味な飼育係として写ったかもしれない。
 『一度血液検査をしてみましょう』から、答えは簡単に出た。ベリーは、貧血で苦しんでいたのだ。オランウータン自体の資料はなかったが、赤血球の数は人の正常値と比較して半分以下、ひとならほとんど動けない状態であるという。もう、その日の午後より鉄分を補給すべく、造血用シロップを与え始めた。
 程なく”ベリーはヒトとして扱われ”病院で精密検査を受けた。5mmのガン細胞すら見落とすことのない最新の医療機械でもって、ベリーの内臓は次々と写し出され、その時の結果を私なりに聞いてゆくと…。
 異常はないが、他の内臓は割合よく動いているのに比べ、小腸の動きは弱く、それがガスをたまらせお腹を張らせている原因ではないかという。腹囲に脂肪がほとんどついていないといわれたのには、意外な気持ちで受け止めた。
 『とにかく運動させなさい』が、忠告。その為にも、まず貧血を治さねばならない。餌だってもっとせいせい食べて貰わねば…。ちょっとした寒空に一時間位放飼場に出しただけで、体温が一度も下がってしまうようではどうしようもない。
 造血用シロップを朝に昼に夕に与えて、ようやく効果の程が表れたのは約二週間後のこと。それはまた、獣医の予告した通りでもあったのだが、回復しだすと全ての勢いが今までとまるで違ってきた。
 しおらしさは何処へやら、餌はもりもり食べる、部屋中やたらうろつき回る。私の顔をちょっとでも見ればけたたましく泣きわめくである。いいようのない重圧からようやく解放され始めたのだが、振り返れば反省させられる、いやしなければならないことが山程ある…。

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