でっきぶらし(News Paper)

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【病院だより  ホンシュウジカ捕獲大作戦 (最終回)】  海野隆至

 夏休みも終え、真っ黒に日焼けした子供達が元気に二学期を迎えた頃も、我々は毎日ずシカの餌付けに汗を流していた。しかし九月頃からシカは、採食状況から見ても毎日のように餌付け場所には来ていないようでした。一山二山越えて清水市側とを行き来しているようです。 
 やがて十月に入り、日差しもだいぶ和らいできたある日の午後、清水市役所農林課からシカ目撃情報の電話が入った。「たぶん動物園から脱走したと思われるホンシュウジカが、駒越の海岸を歩いている」との内容でした。一瞬「海岸 ん〜しめた」。(あの辺りの海岸はかなり高い防波堤が続いている、出入口を塞げば逃げ道は広い海原しかない)捕獲の準備をしながらも、そんなことが脳裏に浮かんだ。
無線で、今日こそは何とかなりそうだから出来る だけ多くの人数か必要と飼育課職員に無線連絡、管理課でも次長をはじめ事務職の人にも応援要請し、総勢十数名の捕獲班が編制された。

 一路、久能街道を清水市三保を目指しまっしぐら。やがて街道を逸れ、海岸に向かう細い路を抜けると突如目の前に太陽の光を反射し眩しく光る大海原、駿河湾が我々を迎え入れてくれた。東西に延々と続く砂浜、シカは何処だ!海岸の先の先まで眼を凝らしては見るものの目にはいるのは、のんびりと竿を立てている釣り人達と波打ち際で肩を寄せ合い親密な若いカップル達「昼間からおみゃらイチャイチャしてんじゃねえよ」静岡弁かな?。と咽まで出かかったヤジを咽奥に押し返し眼を凝らすが、姿は見えない。「また、やられたか」と地団太を踏もうとした時、携帯音がその動きを止めた。農林課の人からだ。「シカは住宅地と防波堤の間の松林を三保灯台方向に向かって歩いています。我々のすぐ前を歩いています」との報告でした。「気付かれないよう余り近づかないで下さい」と返答し又車を走らせた。ここまで包囲網を狭めてきたからには、何としても決着をつけなければ。松林の空き地に数台の車を止め、捕獲網をはじめ捕獲七つ道具を片手に灯台めざしローラー作戦開始。

 二十分を過ぎた頃、「シカ発見」の吉報が先頭の若い飼育員から無線連絡が入り、一同に緊迫感が張り詰めると同時に武者震いが身体を走り抜けるのが感じられた。並足だった我々は駆け足へと代わり、ミツバチの営巣のごとく一点に集結していった。しかし行けども行けどもシカの姿はともかく、人影さえ見えない、再び無線で問いかけてみると、「見失った」と応答。光を遮られた薄暗い林に植生する薄茶けた松の幹、そして地面には松の枯れ葉が覆い尽くされ、その中に身を潜める焦げ茶色のシカ、まるで擬態である。
 程なくとある中学校の敷地内にシカ発見の連絡。恍惚と光る眼差し、凛々しく伸びた角、黒光りしている鬣、怒るほどに張った前肩、我々が今目にしているそのシカの姿は、動物園では見ることがない野生そのものの鹿でした。もしかしてと思い、担当者に確認してみると「間違いなく私達が飼育していた個体です」その一言での疑惑は一瞬に断ち消えた。そうこうしている内に各職員は捕獲の体制についていた。
 ここで登場するのが捕獲七つ道具です。捕獲網、大きなたも、麻酔銃(園外では使用できない)、吹き矢、ワイヤー製のわっぱ、盾、忍耐(体)力、動物的感性等が準備されていた。

 シカは幅20メートル位の学校の空き地に追い込まれていた、先は器材小屋で塞がれ、両側はブロック塀とフェンス、この窮地から逃れるには我々と勝負するしかないはずだ。シカは微動作せずにいたが、やがて周りをキョロキョロしていたかと思うと、次の瞬間意を決したかのように我々の方に向かって軽やかなリズムと共にスピードを増し突っ込んできた。身を低くし、吹き矢の先端をシカの肩に照準を合わせたが、上下運動が激しくて先端は揺れるばかり、的を真横を通過する時肩の高さに絞り、大きく肺に空気を溜めた。今だ!肺に溜めてた空気を絞り出すかのように一気に吹き矢の細い管の中に送りこんだ。しかし反動が伝わってこない。「外したか」肩の数センチ上を吹き矢はブロック塀めがけ消えていった。シカは次の捕獲網めがけ勢いを増しなが疾走していったが、そこに信じられない光景が目に入った。突如、そのシカの前に若い飼育員が両手を一杯に広げ、その逃走経路を阻もうとしていた。「危ない逃げろ」と躊躇もなく叫んだ。あの角でつつかれたら命も落としきれない。しかしシカは彼の大胆不敵な光景が目に入っていないかのように真っ直ぐ彼に向かって突進していった、ところが飼育員はシカと交差する直前とっさに身をかわし、柔道の足払いを掛けていた。「決まったか?」しかしそれもにかわされ、今度はフェンス側を目がけていた。まさか、3〜4メートルもあるフェンスにその前足を掛け次の瞬間反動で身を翻し、松林目がけ一直線。それは曲芸を見ているかのように信じられない光景でした。もうこんな状況ではワッパも盾も不要のもの。

 その後2回ほど捕獲のチャンスが訪れ、一度は吹き矢が命中したが、腰の骨に当たり薬液が注入される前に脱落してしまった。ことごとくその戦略は砕かれた。「こうなったら松林から逸脱しなければ根比べだな」。誰かがそうつぶやいた。我々もかなり疲労感を感じてきたが、シカとて精神的また肉体的に圧迫されているはずであった。
 そして海岸と平行に数キロもある松林を我々は行ったり来たりと3往復ぐらい、いやそれ以上追いかけているはずである。
 ちょうど松林の中間当たりに三保の「はごろもの松」を見渡せる茶屋がある。疲れてきた身体にむち打ちながら茶屋を横目に見ながら通り過ぎようとすると、そこに数人の職員が「もう動けないよ」と言わんばかりの顔をしながら、イスに腰を掛けながらジュースを乾ききった体内に補給していた。
「オーイおまえも一服していけよ」と、聞き慣れた声が耳に入ってきた。「一服したい気持ちも分かるけどそんなことしていたら捕まるものも捕まらねーよ!」と通りざまに嫌みを一言いいながら半島の先端目がけ再び歩き出した。そういえば先ほどの茶屋で休憩していた彼らの声は無線を通してあまり聞いたことがない、いつもシカ発見の吉報は、若い飼育員と50歳過ぎのベテラン職員の、特定の人からだけ聞こえてきたような思いがした。そして無線を頼りに現場に着くと必ず彼らはいた。どこで追い越されたのだろう?。

 やがて「シカは浜辺に出たぞ」と無線が入った。松林を横切り浜辺に向かうとすぐに松林と海岸の真ん中を平行に走る遊歩道があった。歩道にに出てみると、シカは半島先端に向かって砂浜を足をとられながらも遙か先にその姿を目にすることができた。
 そんな時、ふと背後に人気を感じ身を反転して見ると、そこには観光客に混じり、地元の人々数人が一緒になりシカの行方を見ていた。所謂野次馬である。邪魔をしなければいいがなーと思いながら駈け出すと、そこに思いがけない助っ人が現れた。50代前後の男性が、「おい、にいちゃん、俺の自転車の後ろに乗りな。」「先回りしてやるから」と声を掛け横に止まった。私は、躊躇もせず言わ れるままに、自転車の荷台にまたがっていた。
 「にいちゃん、しっかり掴まっていろよ」と言われ、吹き矢の筒と薬品箱を小脇に抱えサドルに掴まった。その言葉とおり、自転車は左右に大きく揺れながらスピードを上げていった。小さく見えていたシカが見る見るうちに大きくなり、傍ら無線で左右に揺られながら現状を他の職員に報告、「全員現場に大至急集合、捕獲網を持っている職員は直ちに集合、逃げちゃうぞー」

 この付近の砂浜は広く、海岸まで50メートル近くもある。その海岸から松林を守るかのように防波堤が半島の先端まで続いている。しかし、防波堤は、海に覆い被さるかのように内側に湾曲し、その高さは有に5メートルはくだらない。そして逃げ場は途中に砂浜に降りるための坂道のみ、この出入口と、あとは砂浜を少しずつ攻めていけば捕獲できる確立は大きい。
 そんなことを考えている内に、自転車は砂浜を悠々歩くシカの前方に出た。「おやじさんこの辺りでもういいよ」「いや、万が一のことがある自転車から降りて気づかれ走り出されたらもともこもないから」そう言いながらシカの50メートル先に自転車を止め「おやじさん、ありがとう、御協力感謝します。」と言いながら防波堤から身を乗り出し、どうやって挟み撃ちにしようかな、頭の中でシュミレーションを描いては見るが、応援隊がいない、無線で「おーい誰かシカを確認できたヒトはいるか?」と問いかけると、「こちら・・・・・今確認できるところまで来ています。どうしましょうか。」「捕獲の網は誰か持ってきているか」「さー私の後ろには余りヒトが居ないようです。」俺達二・三人ではどうにもならなしな。そうこうしている内にシカは我々の前を通り過ぎていってしまった。「何てこった!」やるせなさと気力の喪失に似た絶望感が、身体全体にのし掛かってきたのが判るほど、愕然。シカは我々の30メートル位先で急に足を止めた、そして何を思ったのか、いきなり5メートル以上にそそり立つ防波堤めがけ駈け登ろうとしている。「うそだろー無茶だよ」1回目は防波堤の半分ぐらいの所までジャンプし駈け登ったが、さすがに無理だろうと思いきや、2回目トライ、そして失敗「おいシカは何処へ行った」後ろから息を懲らし、かすれ声で同僚達が追う接いてきた。

  「あそこ・・・」と指を指した先では3回、4回と防波堤を駈け登ろうとしているシカの姿をそこにいた全員が信じられないような顔をしながら食い入っていた。そしてそれは4回目のトライで我々を釘付けにした。シカの前足がまさかのごとく、防波堤の先端の縁に架かり、後ろ足をもがきながら何とかはい登ろうとしている姿には、「ガンバレ、もうちょいだ」こんな事を考えたのは私だけだろうか。いやあの姿を見れば他にもいるはずだ。前足にこん身の力を込め身体を持ち上げようとしている。それと同時に背を丸め後ろ足を何とか縁に架けようとしている。
 数十秒の出来事だが、その光景は数十分も続いたかのように鮮明に我々の脳裏に焼き付いてしまった。後ろ足が架かった途端、もう一方の足も架かり、防波堤を越え再び松林に消えた。周りの一同が顔を見合わせ「おい、あんなのありかい」「見たか」。

無線で「又松林に逃げ込んだぞ」「了解」アレ。「こちら・・・また歩道に出たから」遙か逆方向の歩道を悠々「こちらに向かって再び歩いてくるシカ発見」と無線に入れ、吹き矢の準備をしながら身を隠す場所を探した。歩道をゆっくり追ってくれ、遙か向こうに見える人影に向かい無線を流し身を低くした。幅約3メートルこの前を通れば今度こそ。弾む息を懲らしながらじっとしていた所に、「もうすぐそこに行くぞ」せっかく気づかれまいと気を抑えているのに無線から甲高い声が聞こえる。スイッチを切り、すぐそこにシカがやって来た。来たぞ。これが最後のチャンスかな。やばい、悟られたか!シカが数メートル先で突然足を止めた、「気づかれたか」、しかしシカの方が一枚上手でした。「なんだ、またお前ら俺を待ち伏せしていたのか」と言わんばかりに私の目の前を通り過ぎようとした時(スッー)反動有り、シカの脇腹に吹き矢はしっかり刺さっている。「今度こそ吹き矢命中、集合」シカは本能的にか、松林に逃げ込んだが、薬がじわじわ効き始めているかのように、千鳥足になってきた。5分後坐った。4人位の職員は一斉に捕獲にとシカに飛びついた。一人は角を押さえ込み、他は前後の足を押さえ様としたが、暴れること、何とか足を押さえたが縛るロープがない。「おい誰かロープを持っていないのか」その時飼育の大先輩が一言間を置かず、「みんなズボンのベルトを外せ」さすがだてに経験者だな。と思いながらも直ぐに手はベルトに動いたが、これを外したら俺なんかズボンがずれてしまうよと邪念が脳裏をかすめた。何とかベルトで足を固定し捕獲大成功。「やったぜー、やったなー」の一声に周りにいた野次馬と女子中学生から拍手喝采。「周りにこんな大勢の人がいつの間にか居たんだ」。照れくささとあっけにとられながら、やっと来たロープで二重に不動化固定し、「おーい捕獲成功、直ぐに車を回してくれ」。甲高い声が無線に流れた。

 大漁旗を掲げ凱旋するかのように、この勝利をいち早くみんなに知らせたく、全員が意気揚々の車内で話は盛り上がっていた。時はすでに5時を回っていた。西日が眩しくフロントガラスに反射していたのが、昨日のように思い出されます。
 平成13年2月9日の事件は約8ヶ月後の10月4日にその幕を閉じることが出来ました。
 最後に捕獲に御協力いただきました、静岡、清水両市民の方々の御協力に本紙面にて感謝申し上げます。(特に自転車の男性に、ありがとう。)
 そしてそのシカは今どうして居るか心配されている読者の皆さんへ、ちょっとスリムになりましたけど元気にしています。

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