でっきぶらし(News Paper)

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230号(2016年06月)4ページ

ピンキーとの思い出

 春だ春だと騒いでいたらあっと言う間に桜の花ビラは散ってしまって、気が付いたらお茶の季節となってしまった。どこかの新茶はキロうん万円だとか騒いでいるし、そんなの関係ないよと言いつつも在所の茶も気にかかるこの頃であり(と言ってもこの記事を書いている本人は静岡の最北端の地で生まれ育ったから)、これでもちょこちょこ車をとばして行ってはいるけれども近頃は歳のせいか安全運転になってきている。もうそろそろ赤いちゃんちゃんこが必要となってきている御歳60才、もうすぐ定年だ。こんな年寄りがホッキョクグマを世話している?そもそもホッキョクグマの飼育に関わりだしたのは動物園に来てから3年目であり、その当時は♀のピンキーというたいへんなおばあさまが1頭だけいた。これがまた気品高くこちらを見る目が、「なんだこの野郎はワシの傍に来るじゃない」、そのような雰囲気でありなかなか近くまで寄れなかった。でもやっている間に少しずつ距離が縮まってきて、ちょっとくらいならさわってもそんなにはおこらなくなってきた。でも前肢から下はちょっとでもさわるとえらい怒りようで、とくにおしりのあたりを触るとおもいっきり前肢で水を飛ばされたりと恐怖をあじわった。でも放飼場と寝室の出入りはすごくいうことを聞くし、外ではほとんど寝ているし(としのせいかな?)、そんなに泳がないし、そんなに手間もかからない、これでもホッキョクグマなんだな~と思いながら飼育をしていた。
 その頃は上の方でも新しいホッキョクグマの導入をしたいといろんなところに声をかけていたが、ある所から貸してもいいよと返事が来て、その年の秋ぐらいになってクマ舎の工事が降ってわいた様に始まりだしてきた。それまでマイペースで暮らしていたピンキーにとってはそんなことは聞いてないぞといった感じで、来る日も来る日もコンクリートをはつる音の中寝室で耐えていたが、途中からだんだん元気がなくなってきて食欲も下がって来て薬のおせわとなってきた。だけどもこの体格、薬の量もハンパではない。朝夕やるのかと思うとこっちの方が気がまいってしまいそうであった。そんなこともあってなんとか冬の初旬位に体力も戻って来ていつも通りに生活できる様になってきた。クマ舎の工事もなんとか終わり、さあいつでも新しいクマさんおいでといった感じ。だけれどいつまでたっても返事が無い。どうしたことでしょうか?と尋ねると実は貸してくれるといっていた国からダメだしがあったらしい。貸してくれると言っていたホッキョクグマはその国でたいへん名前が通っていたから、国民のみなさんから署名が届いて他の国へ出すのはけしからんとあいなってしまい、その話はおじゃんとなってしまった。その話を聞いたある先輩は、「やっぱりな、外国の飛行機に乗ったくらいなら安心するな、日本の飛行場に着いても安心するんじゃねえぞ、貨物自動車に乗ったら少しは安心できる」、といいはなち、ホッキョクグマがいかに手に入らないか釘をさされた。そうこうしてる間にピンキーがまた体調が悪くなり、薬の投薬を再開した。春先のある日に、体調が良さそうなので、獣医と相談して放飼場に出したところ、部屋に帰って来れなくなり、放飼場で倒れてしまった。だけど、外に置いておけず、職員総員でなんとか部屋に入れろと言われ、網を持って、放飼場に入るも後肢だけ言う事を聞かないクマさんを、網で強引に包んで部屋の中に入れるのは、大変恐怖であった。部屋に入れても要介護5くらいなので、餌は口元に持って行き、おしりの世話も裏から入って御水で毎日流す。だけれども、前肢はしっかり動くので、餌をやるのに一苦労。それプラス、大量の投薬があった。そんなことを一週間も続けていたら、五月の連休の朝死亡してしまった。だけど、部屋に置いておくわけにもいかず、また朝早くから飼育員を集めて、網に包んで、あの狭い旧クマ舎からえらい苦労をして開園前になんとか動物病院の解剖室まで運びこんだ。そのあと、もうクマ舎には住民がブチハイエナのツキしかいなくなり、ただ広いクマ舎の中に、一頭だけと言う、素晴らしい展開になってしまい、その年の夜の動物園はなんと不具合なことにホッキョクのエリアにハイエナがいるという摩訶不思議な事態となってしまった。だけれども余りにも寂しいので、病院から当時保護されていたアライグマの通称「熊八」を借りてきて、しょうがない、放飼場に一緒に入って相手して少しはお客さんの眼をごまかしていた。そんな思いがあって今はは虫類館となってしまった旧クマ舎ですが、私にとっては大変懐かしい様な哀しい思い出であります。

(飼育係  田地川 恭仁)

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