でっきぶらし(News Paper)

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173号(2006年12月)4ページ

病院だより エリマキキツネザル さよならおばあちゃん

10月20日の朝、園内に見回りに出るとすぐ、無線で呼ばれて電話に出ました。「おばあちゃんがもう虫の息だよ」 。

おばあちゃんとは、高齢のエリマキキツネザルのことでした。急いで獣舎に駆けつけると、部屋の隅でうずくまってじっとしているおばあちゃんの姿がありました。彼女は、寄る年波に勝てず、ここ数ヶ月間衰えが顕著に見られ、調子が下がったり上がったりを繰り返していました。

「ついに、このときが来たのか・・・」 年の衰えは、生き物に訪れる宿命です。動けず横たわっている動物を前にして、すぐに治療しなきゃ! と思う気持ちを、私は必死に抑えていました。彼女は命あるものには必ず訪れる「老衰」だったからです。

おばあちゃんは、御年24歳6ヶ月。かなりの高齢でした。 「死ぬときは自分の家の畳で」という飼育担当者の意向を私たちは受け入れることにしました。無理に治療をするつもりはありませんでした。

ただ、体温が下がり冷たくなって動けない体を擦りながら、暖かい部屋に連れて行って点滴すれば今の苦しい状態が少しでもラクになるかも、という気持ちと、死期を延ばすだけのことには変わりない、という気持ちとで、葛藤していました。

動物園の動物にとって、担当者は親のようなものです。彼女をそのままそっと見送ってあげたい、という担当者の気持ちに私も同感しましたし、「病気」ではなく「老衰」というこの状態で、注射をして痛い思いをさせて延命をすることがどれほどの意味をなすのか、とも考えたからです。

うずくまった身体を持ち上げてその下にタオルを敷くと、おばあちゃんは力なく横たわりました。心臓の拍動はゆっくり、弱く。もうすぐお迎えが来るんだな、とわかる状態でした。彼女の手を握り、身体を触りながら、寂しくて切なくて、涙がこみ上げてきました。

私は目の前で近親の死に接したことがありませんが、きっとこんな気持ちになるんだろうな、と思いました。

夕方、かすかに息をしているおばあちゃんを、夜は寒いからと病院に連れて行くことにしました。タオルで抱きかかえて馴れ親しんだ小型サル舎を出ようとした時、おばあちゃんが小さな声で「クー」と鳴いたのです。

24年間暮らした家を出るということが、彼女にとってどんな意味があるのか、感じたのでしょう。病院に行く途中、病院が見えると、また「クー」という小さな声が聞こえました。死期を悟ったのでしょう。物寂しさを感じた瞬間でした。

2時間後、暖かい部屋で、おばあちゃんは息を引き取りました。

いくら悲しくても、死を無駄にするわけにはいきません。解剖して、死因を調べる仕事が待っています。他の子たちに彼女の命を受け継ぐ意味でも。おばあちゃんは、腫瘍でした。
苦しそうな様子もなく、眠るようにして亡くなった彼女。動物って強いなあ・・・辛い表情も見せなくて。私なんて、すぐ弱音を吐くのに、と頭が下がる思いでした。

希少動物の種の保存にも貢献してくれたおばあちゃん。数年前から、バックヤードで余生を送っていました。毎朝、見回りの際に獣舎に入ると、担当者に挨拶してから、おばあちゃんの顔をのぞくのが私の日課でした。

おばあちゃん、長い間ありがとう。お疲れ様でした。あなたの命は、こどもたちに受け継がれています。その愛嬌のある笑顔で、天国でも元気に暮らしてください。
(野村 愛)

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