でっきぶらし(News Paper)

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146号(2002年03月)3ページ

【春の日の再会】   小野田 祐典

 2002年の春は、急ぎ足でやってきました。三月上旬から暖かな日が続き、気象庁の観測史上最も早い桜の開花が各地で記録されました。しかし、私が上野動物園を訪ねた3月26日、東京は寒波の戻りで肌寒く、また春雨によって満開の桜も散り始めていました。上野公園の近くまで来ると、悪天候にもかかわらず、花見目的の人や上野動物園へ向かう人などで混雑していましたが、楽しげな人々とは対照的に、私の足取りは重く憂鬱な気分でいっぱいでした。

 私がこんなにも暗い気持ちで上野動物園を訪れた理由は、3月17日に受けた上野動物園からの一本の電話にあります。それは、1999年7月9日より日本平動物園から上野動物園にブリーディングローン(繁殖の為の貸出し)で預けているメスゴリラのトトに異常な出血が連続して見られたという事で、検査の結果、尿からの出血ではなく子宮からの出血という事が判明し、詳しい検査が必要という事でした。

 その検査の際に日本平動物園からも一名、立ち合いを求められたのです。その依頼を受けた時、私は驚くと同時に不安で胸がいっぱいになりました。子宮からの出血・・・。もしや子宮筋腫ではないか?最悪の症状が頭に浮かび、我が子のように育てたトトのことが心配でなりませんでした。手術が必要になるだろうか、その後の治療はうまく行くだろうか・・・私は次から次へと浮かんでくる不安に苛まれました。また、もし本当に子宮筋腫であれば、当園と上野動物園が長年をかけて取り組んできたゴリラ繁殖計画も終止符を打つことになってしまいます。仲良しだったトトと引き離した事で、寂しい思いをしたまま敗血症でこの世を去ったゴロンに何と言えばよいのだろう・・・・。 遠く離れた静岡でいくら心配しても不安は解消しないと思い、率先して私が立ち合いの依頼を受けることにしました。しかし、こんな形でトトと再会する事になるとは、正直複雑な気持ちでした。何故ならば、私は繁殖計画が成功し、トトが出産をするまでは会わずにいようと心に決めていたのです。ですから、これまでテレビの取材や会議などで何回となく上野動物園を訪れることはあっても意識的にトトに会う事を避け、モニタールームで画面に映るトトを陰ながらそっと見守るようにしてきました。ようやく上野動物園のゴリラ達に打ち解け始めたトトが長年共に過した私の姿を見て、里心を感じたり精神的に不安定になったりしてはいけないと思っていたからです。しかし、本音を言えば私自身の方が一度でもトトに会ってしまうと、別れが辛くなってしまうというのが実情かも知れません。

 昼過ぎに上野動物園に到着し、しばらく打ち合わせをした後の午後3時近くに検査が始められることになりました。メンバーは、私の他に上野動物園のゴリラ飼育担当者、獣医、そして今回は産婦人科の医者、看護婦に診断してもらう事になりました。類人猿は人間の体とほぼ同じ作りであるために、怪我や病気によっては人間の専門医の協力により検査や治療をする時もあり、当園においてもゴロンが目と耳と歯を、オランウータンは内科医の治療をお願いした事があります。 検査のためにはまずトトに麻酔を打たなくてはなりません。私はトトに意識があるうちはトトの居る部屋には近付かずに、いつのもモニタールームにて経過を観察する事にしました。麻酔はビニール管の中に薬の入った注射器を入れて吹き矢で打つのですが、以前にも麻酔をしているトトは獣医が近付いた時に感づいた様子で、落着きを無くし狭い部屋を動き回りました。人間でも注射は嫌なものですから、動物にとっては恐怖心すら覚えるのも無理は無いでしょう。それでも麻酔なしに検査は出来ないので、予定通り注射器は吹き矢で打たれ、トトのお尻に命中しました。トトはすぐに注射器を払い除きましたが、薬は当たった瞬間に体内に入るために効き目は十分にあり、7〜8分後、トトは床に大きな体で横たわり動かなくなりました。それを確認してから私はようやく席を立ち、トトの元へと向かいました。モニタールームからトトの居るその部屋までは目と鼻の先であったのに、私には遠い遠い距離でした。複雑な再会ではありましたが、久し振りに真近でトトを見ることが出来、胸が熱くなりました。

「寝顔、毛艶、体つき・・・あの頃と何も変わっていない・・・」 私は少しでも近くでトトを見ていたいと思い、吸入麻酔をトトの口元に当てる係をかってでました。診察台が部屋の中に持ち込まれ、トトを五人がかりで台の上に乗せました。診察の間中、私は右手で吸入麻酔の器具を持ち、左手でトトの首筋から頬をさすっていました。
「どうか、悪性な病気ではありませんように・・・。子宮筋腫ではありませんように・・・。」
私はトトの頬をさすりながら、祈り続けました。

しばらくすると、触診していた医者が明るい声で言いました。
「シコリは無いなぁ。ガンはないよ。」
うつむいていた私は思わず顔を上げ、医者に尋ねました。
「本当ですか?じゃあ、悪性の病気ではないんですね?」
医者は触診を続けながら頷きました。
「えぇ。お腹に脂肪はほどんどないから、触っただけで分かりますよ。これならエコーを取るまでもありません。たぶん、出血の原因はホルモンのバランスが崩れた為でしょう。人間の場合同様、二ヶ月くらいで自然治癒すると思います。妊娠の可能性も失われていませんよ。」
 そこにいた全員の顔がぱっと笑顔に変わりました。私も張り詰めていた気持ちをホッと撫で下ろし、トトの寝顔を見つめました。
「トト、よかったな。悪い病気じゃ無かったよ。」
 安堵感と共に熱く込み上げてくるものを感じました。 繁殖計画が引き続けられることも喜びでありましたが、何よりトトが健康でいてくれることが嬉しかったのです。

 笑顔で片付けを終えて戸外へ出ると、いつの間にか雨が上がり、穏やかな春の風が心地よく感じられました。トトの無事を自分の目と耳で確認できたことが、私の気持ちも足取りも軽やかにしていました。その夜、上野動物園の関係の人達と祝杯を上げ、来た時の暗い気分とは対照的に、私は鼻歌気分で東京を後にすることができました。
「トト、今回は複雑な再会になってしまったけれど、今度会う時は赤ちゃんを抱いた姿を見せてくれよ・・・。」と、いまだまどろみの中にいるだろうトトに思いを馳せながら・・・。

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